水も滴る
 水も滴るいい女、なんてよくいうけど。
 
 水滴と煙、それからでこぼこのガラスで向こう側が見えないお風呂の戸をコンコン叩く。
 「お兄ちゃんー?」
 はあい、と間延びした返事が返ってきた。
 「リンー?」
 私を呼ぶ声は、狭いお風呂の中で少し反響している。ドアから逃げた蒸気がふんわり伝わって、少し湿った暖かさを感じた。一枚羽織ってはいるけど、それでも肌寒いこの季節にはちょうどいい。
 「シャンプー持って来たあ」
 「あ、やっぱり切らしてた?」
 「買ってたけどね、出すの忘れてたみたい」
 マスターにそう言えって言われた。でもマスターだってないと困るし、悪気はないはず。たぶん。
 「入るよー?」
 「ってちょっま」
 躊躇い無く戸を開ける私に、お兄ちゃんの声、それから湯気と同時に、ちょうどいい湯加減……の、シャワー。
 「っぷ」
 「あああリン!ごめんっ」
 シャワーを真正面から浴びて、反射的に目を閉じる私にお兄ちゃんが慌てて謝った。
 頭からお腹に掛けてばっちり浴びちゃったシャワーの水がセーラーや髪に滴って、あったかいけどむずがゆい。
 眼を開くと水が入ってきそうで開けられないし、手はふさがってるしで目が拭けない。
 「うわー……ごめんね、着替える?」
 お風呂の中に置いてあったタオルで顔を拭いてもらって、やっと目を開けられた。
 ……そのまま見開いてしまった。
 水に濡れていつもより濃くなってる髪から雫がぽたぽた垂れてる。いつもマフラーやゆったりした服に隠れてて、お兄ちゃんの性格も相まって柔らかそうに見えてたのに、全部取りはらった今の体つきは、完全に男の人のものだった。
 骨ばった腕に、がっちりしたからだ。いつも見てるはずの手も、その体にくっついてると思うとものすごく男の人らしく見える。
 全部からぱたぱた落ちてるしずくが滑って目が移るから、余計にそれが際立ってた。
 「あー、ごめんリン、大丈夫?」
 ボーっとしてたと思われてたらしくて、目の前で手をひらひらされた。
 「あっはい!」
 思わず背筋を伸ばしてしまう。
 「大丈夫みたいだね」
 いつもみたいに微笑んで、いつもみたいに私の頭を撫でる。
 ああやっぱりお兄ちゃんなんだ、頭からじんわり伝わる温もりに、当たり前なのに実感した。
 けど、次に来た一言であっという間に戻された。
 「もういっそのこと俺と入っちゃう?」
 お兄ちゃん、微笑んでない。
 「へ」
 なんだかあれ、ドラマで恋した男の人が、女の人を誘うような、
 「なんてね」
 フリーズした私をよそにお兄ちゃんはいたずらぽく笑って、私の手からシャンプーを取った。
 「は、入る!」
 ワンテンポ、ツーテンポどころじゃない後れを取ってやっとフリーズが解けた私に、お兄ちゃんは微笑んでるのか、誘ってるのか、よくわからない笑顔を私に向けた。
 「じゃあ、それ脱いでバスタオル巻いておいで」
 ばたん、と閉じたお風呂の戸の向こうで、私の心は熱暴走をぶり返していた。
 
 ……水も滴るいい女、ってよく言うけど。
 それは男の人にだって適用されるんだと、私は今日、身を持ってそれを知った。
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