草木も眠る丑三つ時、俺は妹の部屋に音も無く忍び込む。
「よしよし、よく眠っているな」
ベッドの上に身を沈め、すうすうと寝息を立てる天使の寝顔を覗き込んで、俺はそう小さくつぶやいた。

 毎晩、眠りに着く前にリンのほっぺたをぷにぷにするのが日課である。
起きている間は恥ずかしいのかやらせてくれない。昔はいくらでもやらせてくれたんだけどな……。
 赤ん坊の頃なんかは無抵抗なのをいいことに、ぷにぷにだけでは飽き足らず頬擦りしたりちゅっちゅしたりしていたけれど、あの頃は自分も若かった。
さすがにやりすぎたと今では思う。

 早速、今宵もほっぺたぷにぷにを堪能する事とした。
 リンのほっぺたはいつでだってやわらかくてあたたかい。心が洗われるようだ。

 日ごろの疲れ、社会のしがらみ、人間関係……

 それらに壊れかけた心を、このぷにぷにはそっと包み込んでくれる。
彼女の頬をつまみながら、俺はこの時この瞬間の幸せを噛締めた。


 ――……一瞬、リンの表情が苦痛に歪むと、彼女は急にぱちっと目を開いた。
「……!?」
俺は思わずたじろいだ。リンの愛らしい眼球がくるっとこちらに向けられる。
「……兄様……?」
彼女の口から漏らされた声はそう言った。別にいけないことをしていたわけではないのだが、咎められたような気持ちになり、なんとも気まずい。
「あ、あのな、リン……」
何か言い訳をしてこの場をやり過ごそうと思ったが、そうする間もなく彼女の口から次の言葉が発せられた。
「――疲れているの?」

「……。」
思いがけない言葉だった。
彼女は……そう、俺の心を見抜いていた。変にその場しのぎの言い訳をしようとした自分が急に恥ずかしくなった。
「お仕事、大変なんだね……。あのね、本棚にある詩集の後ろ側のページに、このあいだいただいたおひねりがあるの。全部ドルだけど……。良ければ使って」
リンは暗闇の奥の本棚を指差してそう言った。

 ――ドルだって?
 まさか米軍相手に路銀稼ぎしたんじゃないだろうな?
 国際派のルカならともかく、日本語の活舌さえあやしいこんな14そこらの小娘が、全く言葉の通じない大人相手に愛想笑いを振りまいて歌を歌ったというのか?
 いや、それより……――
「ばか、子供がそんな心配するんじゃない!……もう、寝ろよ」
そう言って部屋を後にしようとすると、
「まって、兄様!」
と、呼び止められる。
「こっちへ来て。もっと近くに。――顔を近づけて」

 なんだ?キスでもしてくれるつもりなのか?
 なんて事を考えていると
「いてでででっ……」
伸ばされた手にほっぺをつねられた。彼女はしばらくそのままの状態で、ほんの一瞬だけ哀しそうに表情を曇らせると、やがて手を離した。
「これでおあいこだね」
リンは微かに微笑んでそう言った。
「おあいこか。ははは……たしかにそうだな。リンにはまいったな」
俺は苦笑しながら、まだじんわり痛む頬を撫でた。

 そろそろ部屋を後にしようと扉のほうに歩くと、その背中にリンがつぶやいた。



「――……ちゃんとごはん、食べてね……――」



 俺はフフッとただ笑うと、そのままリンの部屋を後にした。

 

 

inserted by FC2 system